いくらか前に、「自分の知らない言葉を使っている人を見ると笑う人」の存在について考えていたことがあります。
ツイッターのタイムラインに流れてきて、数日間そのことに対する各々の見解を目にすることがありました。
結論から言うと、「面白い」とは「日常から離れていて、その存在が自分にとって利益を害さないもの」だと思っています。
この文章は論文ではなく、何かを調べたものでもない、ただ個人の脳内で練り続けたものを頭の外へ追いやった、よくわからないゴミのようなものだと思ってください。
人にはそれぞれ、その人の世界観の常識というものがあって、その常識から逸脱した光景を目の前にした時、見るからに危害を及ぼす危険なものであれば、逃げたり自分の身を守る行動を取りますが、それが自分に対して危険なものでないとわかれば、人は笑うのです。
笑いというものは威嚇の名残りという説があります。
人類は進化の過程で目の前の状況に対して「自分は安全な立場にある」ということを、「自分はこれよりも立場が上だよな!」と、仲間同士、笑いという表情で仲間と確認するようになったのではないでしょうか。
日常的だったり普通ではない、おかしな発言や行動を取る人の存在は、群れの中で許容される振れ幅を越えればリスクとなるわけですから、ここのラインを越えたら自分たちの日常のものではないと判断され、威嚇の表情を仲間と共有するのです。
実際、自分一人が複数の人間に笑われると胸が痛むのは、こういうメカニズムなのではないでしょうか。
漫才やコント、お笑いがなぜ面白いのか?
それはこのような、非常識な人、行動、現象を、互いに「我々にとって異常である」と確認する行為。すなわち、ユーモアとは「当事者意識を欠いた加害性」なのだと思います。
冒頭で話した「知らない言葉を使う人を笑う」という行為も、その人がこれまで過ごしてきた文化やコミュニティの中で形成された常識から外れた光景を前にして本能的に取った、自分の常識を確認する行動だったのでしょう。
では、非日常・非常識なものであればなんでも人は笑うのか?
そんなことはありませんよね。
たとえば目の前で自分の大切な人が傷つけられたりしたらとても笑えるものではないでしょう。
一方で、フィクションの科学者が「面白いデータが取れた」みたいなことを言うシーンもありますが、彼らの言う「面白い」データ・現象を目の前にして「ブッフォwwwwこwwれwwwはwwww」と爆笑しながら見ているようなイメージはあまりありませんよね。
これが冒頭で話した、「日常から離れていて、その存在が自分にとって利益を害さないもの」という条件に当てはまるものだと思います。
もし天体観測をしている科学者が地球に接近している巨大な隕石を確認したら、普通は青ざめるでしょう。
天体望遠鏡を眺めていた人が突然「イッヒーーーッッ!!!!wwwww隕石!!!wwwwwwデッカ!!!wwww人類wwwwほwろwびwるwww」と笑い出すことも……まあ気が触れたら笑うかな?
今この例を見て笑った人がいれば、あなたの中のユーモアという加害性のスイッチが入ったということでしょう。
「科学者というキャラクターは冷静なものである」というあなたの常識から外れた光景、つまり異常な光景を目の当たりにし、それとは関係のない立場にいる自分の場所は安全であると確認・共有する。
2人以上なら笑っている顔を見せれば良いですが、1人のときも人は笑ってしまいますよね?
それはなぜか?
あなたしかその場にいないと思っていても、本当に1人とは限らないからです。
サルになって考えてみてください。
草木が生い茂る森の中で、ここは安全であるとあなたが確信した時、顔も見えない、どこにいるかもわからない仲間にそれを伝えるには何を使いますか?
そうです、声です。
「ハハハ」
人の体は笑っちゃうと声が出るようにできていますよね。
その笑い声こそが、表情に変わる状況を伝えるためのツールだったのではないでしょうか。
何を見て、どれぐらい笑うのか、笑わずに「面白い」と言うのかは人によって差はありますし、これを知ったことで世の中に何か影響を与えるものは何もありませんが、目の前で起こる当たり前の現象に対して、普段はしないような思考を巡らせるという非日常な行為は、日常を「面白く」するのだと私は思います。